いつも思い出しはするものの、行動を怠って調べなかったことがあった。かつて『AERA』にて読んだ赤松啓介の記事である。いつ読んだのかも忘れていたが、記事の内容からすごい人間がいたものだと感じた記憶がある。
今日図書館に調べものに行った際、ふと見ると『AERA』の記事検索ができるとのこと。これ幸いと申し込んで検索かけたら数秒で該当記事が判明。まったくすごい時代になったもんである。どうやら私がかつて読んだ記事は、大学入試に失敗し浪人していた時代のものだった。
残念ながらデジタル媒体へのコピーをしていただけず、画面のハードコピーを購入。
帰宅しOCRにかけ文字校正したものである。誤字・脱字は私の校正ミスである可能性が非常に高い。ミスなどのご指摘をいただけたら幸いである。
----------------------------------------------------------------------------
AERA 1989.7.11 P53~
民俗学者の赤松啓介さん(現代の肖像)
赤松啓介は、丁稚小僧から始め香具師も体験した異色の学者である。
労働運動、唯物論、民間信仰と調査研究の対象は広くて深い。
夜道いを語らせたら、彼の右に出るものはいなに違いない。
若くして「柳田民俗学」批判の書を著し注目を浴びる。
人間の体臭とその営みのぬくもりを忘れない民俗学がここにある。
(大阪本社編集委員長井康平、写真福永伸)
「東京からお迎えに行く」という、若い人の申し出を赤松は断って単身、神戸から上京した。4月中旬、東京の早稲田奉仕園で催されるシンポジウムに招かれたのである。
「民俗学する身体--赤松啓介の仕事をめぐって--」と題するシンポジウムのパネリストは一橋大学教授‐阿部謹也(西洋中世史)、神奈川大学短期大学部教授‐網野善彦(日本中世史)、国際日本文化研究センター教授‐山折哲雄(宗教学)、法政大学助教授‐佐藤健ニ(社会学)の4人。近年、著作などで注目を集めている先生たちだ。
シンポジウムとうたわれていたが、実情は赤松の独演会だった。パネリストも聴衆も、この80歳の民俗学者の「夜這い談義」の毒気にあてられてしまったのである。
主催は「都市のフォーク口アの会」、共催は「見えない大学本舗/乱調社」「天下御免商会」などと名乗る得体の知れない(?)グループで、呼びかけのパンフレットにはこんな風に書かれていた。
赤松啓介
世直しライブ・卜-ク
「非常民は自転車に乗って」
民俗学がまだ、大学の講義などに成り上がっていなかった時代--半世紀も前から「あ
るく‐みる‐きく」だけを忠実に実践し続けた野(や)の知性、赤松啓介。ふらりふらりと路上を流して歩く、その眼に映った風景は!?そして、今、このクソッたれた時代に、あの「歩く速度の学問」(民俗学)は未だ可能か!?‐…‐「最後の民俗学者」赤松啓介、熱い視線を浴びて、ついに東京来襲!?
ここ3年ほどの間に赤松の『非常民の民俗文化-一生活民俗と差別昔話』『非常民の民俗境界--村落社会の民俗と差別』『民俗学(復刻)』が、明石書店からたて続けに刊行されて、民俗学の古い研究者たちは「幻の論文に出あえた」と喜ぶし、これから民俗学を志す若い人たちの間には熱狂さえ生まれているという。で、この日のシンポジウムになったというわけだ。かぶりつきの"桟敷席"までぎっしり埋まった聴衆に、司会の東京外国語大学助手‐大月隆寛(35)が叫ぶ。
「赤松先生登場!」
わざわざ後ろから、聴衆をかき分けての登場を演出し、勇壮なメロディーがスピーカーから流れる。小柄な赤松は面映ゆそうな笑顔で席についた。「師範学校の先生がムラヘアンケートをとりに行くので、わたしに『ちょっとついて来て<れんか』という。『このムラには夜道いがありますか』と聞くと『わしらのおじいさん、おばあさんの時代にはあったそうです』なんて返事しとる。それで横向いてべ口出すんです。あとでわたしに『どや、うまいこと言うたやろ』。なんのことはない、その男も夜這いをやっとる。嘘言うたという意識はなくて、ムラのためにうまいこと言うてやったというわけ。正直に言うたら恥になるんです。スラム街の調査でも、決して本当のことば言わん。相手の立場になって考えねばわからんことです」
戦争中の牢屋暮らしでいためてしまったというガタガタの歯だから、話は余分な音がまじって聞きとりにくい。しかし、こんな楽しそうにエロ話をするじいさんはそうめったにいるものではない。聴き耳を立てないわけにはゆかないのだ。「戦後すぐに、淡路の洲本にバンガローをこしらえた。若い男女が泊まる。土地の若い連中は喜んで夜這いをかけた。そうしたら警察は『集団強姦』として、新聞にも大々的に出た。若い連中に言わせたら『向こうからも夜這いに来たらええんや』」
〇魚屋の丁稚とお得意のおかみと
パネリストたちが論ずる。
「民俗学者宮本常一氏の『土佐源氏』は、乞食が放蕩三昧した身の上を物語るのだが、赤松さんは同様に放蕩しながら、その自分をちゃんと見ている。そこに学問がある」(阿部)「最近、東北の津軽の民宿で、じいさんが歓迎の挨拶をしてくれているのだが、酔っていることもあって何を言っているのかさっぱりわからない。酒を飲んだ人と自由自在に話せなければ本当の人の心など到底わからないし、エ口話ができなければ民俗学などはできない。今、民俗学を看板にしている人は、本当にできるのかと疑う」(網野)Γ日本のマルクス主義は信仰とセックスを把握し損なった。民俗学もまたそうだった。その中で赤松さんの先駆性は特筆すベきだ。民俗学者柳田国男は常民を設定して非定住者を差別する装置を巧緻につくり上げた。折口信夫は、その常民を心ひそかに打ち破ろうとした。赤松さんは非常民の民俗学によって民俗学に指針とインパクトを与えてくれた」(山折)「柳田民俗学には欠落している民俗形成のメカニズムに対する目が、赤松民俗学にはある。それと、大阪中央郵便局に勤めていた昭和初年代、当時の左翼はみな、右肩上がりの字で書いていたというような鑑識眼がある」(佐藤)
会場には宮田登(筑波大学)、福田アジオ(国立歴史民俗博物館)の姿もあつた。
司会の大月は赤松に、仕事の遍歴をたずねた。赤松の著作のどこにもまとまった形で、時系列的に遍歴が記されていない。個々の民俗が語られる中で、断片的にあらわれるだけだからだ。たずねられた赤松は、大阪での丁稚奉公時代を話し始め、とうとう丁稚についての具体例を伴う一般的な話になり、魚屋の丁稚とお得意のおかみさんとの睦み合いに進み、「そこのオヤジや息子がどないな顔して丁稚の下ろしたサバを食うか、考えただけでおかしゅうておかしゅうて」と顔をクチャクチャにする。会場は沸くが司会はしびれを切らす。
「民俗学ヘの関心はどんな文脈で」
と話を本筋に戻そうとしても、
「それはまだずっと先のことですわ」
と赤松は意に介さない。
夜這いは共同体の秩序を維持するためでもあった。出稼ぎに出ていて男が少ないムラ、男女の均衡の取れているムラ、ムラの構成によって夜這いのあり方もさまざまなのだ。セガレとムスメはいいが、ゴケはだめというムラ、正月にくじ引きで数が足りないとゴケを加えるムラ、限定的に1年間、男女を固定するムラ、総当たりのムラ…。
夜這いを開放しているムラ同士ならいいが、開放していないムラから来ると、出役という見張り番が見つけて素っ裸にして半殺しにする例もあった。
「夜這いを"おおらかな民俗"と言ったりするアホな都会人が今はいる。実情はそんなんと違う」
と赤松は言う。そして、被差別部落から一般の部落ヘの夜這いは袋叩きにし、逆に被差別部落ヘは出かける。しかし、結婚に結びつくことはなかった、と赤松は指摘する。
夜這いの話はエ口話に終わらない。天皇制国家の思想、教育の支柱となった1890年の
「教育勅語」はΓ一夫一婦制」を掲げるが、義務教育の年限が4年だった時期には、勅語はほとんど浸透せず、後に6年制になってようやく叩き込まれるようになった。
それでも「村が県庁などに出す教育報告はみなインチキだった」と赤松は言う。「学校ヘ4日来てくれたら1年にしてやる」。そんなことをして村の恥をさらさないようにした。1897年の日本の就学率7O%という数字を赤松はせせら笑う。だから「一夫一婦制」はお上の理念でしかなかった。
赤松は教育勅語の偽善性を衝く。「夫婦相和し」をとなえながら遊郭を囲い込んで国が管理し、戦争になれば外国の女性を慰安婦に仕立てあげて戦線を連れ歩く、その構造を怒る。
シンポジウムの最後は、クレージーキャッツ「実年行進曲」の替え歌「赤松行進曲」に会場が声を合わせることだった。
#おいらは赤松文句があるか
髪は白いが思想は赤い
・・・・・・・
神戸市兵庫区の、いかにも神戸らしい細い坂道の途中に赤松の自宅はある。
「赤松啓介」の表札と本名の「栗山一夫」の表札が掛かる。「兵庫県郷土研究会」の小さい看板も。玄関の戸を開けると「返事がないと2階に上がって下さい。難聴です 主人」と張り紙。新聞、雑誌、本の間をすり抜けて2階ヘ。資料にかがみ込んでいる赤松は、客が目の前まで来ないと気がつかない。妻沢枝(63)とは戦後に結婚した。私が赤松宅を訪れた時は、沢枝は京都で教員をしている娘夫婦の育児の手伝いに出かけていた。電話で沢枝をつかまえると、
「あの人は耳が遠いから、私がいったん家を離れると連絡しようがないんです」
と笑う。
1909年、兵庫県加西郡(現加西市)に生まれた。生家は酒造業を営んでいたが、後に没
落。母子家庭で小学校高等科を卒業。神戸、大阪で証券会社給仕を振り出しに、果物屋や廉売市場の丁稚小僧、露店や香具師仲間の下働き、超零細工場工員などを転々とした。
高等科を出て、どうせ中学ヘ行けないならと神戸市の大倉山図書館で歴史物や立川文庫の『真田十勇士』などを読み、好きな勉強で気ままにやろうと思ったという。
17歳ごろ肺尖カタルにかかり郷土で静養することになった。おとなしく寝ていたのは1カ月ほど。そのうち自転車で近辺を走り回るようになった。古墳や廃寺址などを調べ、民俗習慣、方言、昔話の採集も始めている。
父母がかつて小学校の教師をしていたので知り合いが多く、どこでも親切に教えてくれ、人を紹介してくれた。
〇弾圧の対象となるが非転向貫く
3年ほどにわたるこの時の調査を赤松は「第1次調査」という。3歳ぐらい若く見られた。これは大変に得なことだったと後にわかる。大人相手には口をつぐんでしまう人たちが気を許して<れたからである。
この教訓からか、子供集団の民俗を調べる時には、絶対にムラの有力者とかモノ知りとか小学校の校長などにたずねてはならない、というのが赤松の心構えだった。整理されたきれいごとしか聞き出せないし、そういう「権威」を通じて子供に接しても、子供の心を開かせることができないのは、今も同じだ。
ではどうするか。子供が集まって遊んでいる場所で、開き出すことだ。赤松が差し出すグリコのおまけは人気があって、子供たちはすぐ打ち解けたものだ。
香具師稼業も、資料を集める絶好の場だった。まず香具師が観察の対象として面白かった。神戸の新開地や大阪の天満などで、棒にくくりつけた石くれを、地面にいわくありげに立てて口上をのべるだけで大勢の見物人を2時間もくぎづけにした仲間がいたという。切り傷の薬を売るのだが、大変な技量だと驚いた。
22歳で大阪中央郵便局吏員に採用される。日本逓信労組大阪支部委員長など労働運動
に入るとともに日本戦闘的無神論者同盟員として反宗教闘争に。共産党入党。
このころ一方で、大阪府と奈良県の境にある生駒山麓で民間信仰の調査をする。労働運動、唯物論研究、反宗教闘争、日本共産党入党などの一面と民間信仰調査の同居するところが赤松らしい。
行者、オコモリなど、当局が「淫詞邪教(いんしじやきょう)」として摘発するものが主な対象になった。「聞き取り」などという生易しい調査で実態がつかめるものではない。信者にまじり、性と一体化した信仰を体験し、祈祷師の代理までやって調べたものだ。栗山一夫の本名で書いた『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、仲間2人とつくった「ハリマ(播磨)・フォークロア・グループ」で日本の民俗学について討論するための叩き台だった。時代は1936年の2・26事件前後である。議論は結局、「柳田国男をどうとらえるか」だった。
柳田も播磨の神崎郡出身で、赤松の郷里の加西郡とは隣り合う。赤松にとっていわば郷土の大先達だったが親近感は持てなかった。柳田は民衆を平民、常民と言ったが、本当に民衆を愛していたか。
赤松は言う。
「柳田は『郷土生活研究採集手帖』をつくって山村調査の1O0カ条を掲げた。その中に、調査対象に出稼ぎはあるが、小作、地主がない。そういう分類さえしていない。柳田は農政官僚の経験があるから、農村の階級制を知っているはずなのに避けている。柳田民俗学派には、"左翼くずれ"もいて、連中だって当然わかっているのに、黙っている」。『手帖』にいう尊敬される村人となるために日ごろどんな教養を積んだかを調べ、「日本人のみが持つ美質」を明らかにしても、地主による小作米の過酷な取り立ては変わらない、というのだ。
『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、柳田民俗学を批判した初めてのものとされている。これを土台にして『民俗学』が1938年5月に三笠書房の1冊として誕生した。
柳田民俗学を「プチブル民俗学」として批判し、マルクス主義民俗学の立場を鮮明にした名著--と、研究者の問には伝承されていたが、今度の復刻まで、読んだ人はまれだったはず、と福田アジオは「解説」に書く。
赤松の思想と行動は当然、弾圧の対象になった。1933年、郵便局勤めの時期の組合活
動で大阪の警察に検挙されたのを手始めに、唯物論研究会の会員として39年に、神戸の警察に逮捕され、非転向を貫いて戦争末期にようやく釈放されている。
ブタ箱も、赤松にとっては民俗採集の場になった。三食付きで作業もしないで座っているのだから、1日中ムダ話をするほかない。いろんな犯罪でほうり込まれた連中相手だが、シャバのインテリどもよりよほど信用してよい、という感想をもった。
体験した各種の拷問も詳細に記録した。牢名主を頂点とする人間関係、大小の犯罪の実態、そして男色。男が「女」に変えられてゆくさまを、赤松は恐怖感をこめて描写している。
赤松民俗学についてはこれまでの3冊の刊行で、その実相をうかがえるようになった。さらに『戦国乱世の民俗誌』『非常民の生活領域』『天皇帝|起源神話の研究(復刻)』が秋までには出る予定だ。
多くの民俗が急速に失われた結果、戦後の民俗学の衰退は目を覆うばかりである。
例えば、「水口祭(みなくちまつり)」というものが各地にあった。田植え前に苗代で行う神事である。だが、ご存じの減反政策に加えて、稲作農家でさえ、自分の所で苗代をつくらなくなった。四角にかためられた苗を供給されて、田植え機で植える時代だ。神事の成り立ちようがない。
赤松の試みた民俗学は、古い民俗とその解体過程を見つめ、変革への糸口をつかもうとする志に支えられていた。
敗戦による上からの農村共同体の解体、高度経済成長と軌を一にする離村・出稼ぎ、過疎化。昔のような民俗学は、もう不可能になっている。
それだけにストーリー・テラーとしての赤松とその著作は、若い人たちをますます引きつけてやまないだろう。
〇私をかついだ連中も読みが浅い
最近の考古学発掘ブームの華やかさに目を奪われ、忘れられたものに「赤松考古学」がある。やはり明石書店から9月に刊行される予定の『古代緊落の形成と発展過程』は、播磨・加古川流域の古墳調査に基づいた1937年の論考を軸にする。
そのころ大手を振っていた皇国史観による「神代の歴史」の矛盾は民衆の協力を得て古墳を科学的に調べることで衝くことができるという夢が語られている。しかし民衆の動員は敗戦まで待たねばならなかった。
赤松の夢が実現したのは1950年代初めの岡山の月の輪古墳発掘だった。資源学研究
所の和島誠一らとの仕事だったが、学生や民衆1万人が発掘に加わった。付近の町村を始め、東京、京都、大阪などからカンパや米、麦、野菜、みそ、菓子といつた現物が寄せられた。
「真実の歴史を明らかにしたい」という民衆の欲求が古墳発掘と結びついたことを、当時の政治的な"逆コース"の潮流の中で、赤松は何より貴重なものに思った。
4月末、赤松を神戸市の西部、明石海峡に面する五色塚古墳ヘ誘つた。全長2OOメートルに近い兵庫県下では最大の前方後円墳である。1965年、同古墳を史跡公園に復元する工事の現場監督を赤松は委嘱されたのだ。
海からの強風にさらされながら赤松は広い古墳一帯を歩き回って説明してくれた。
当時、現場事務所にいた赤松を、県立兵庫高校の歴史研究同好会の1人として訪ねた財
団法人滋賀県文化保護協会の兼康保明(40)は、赤松が高校生相手に熱心に遺跡の保護
を説くのに感激したという。
「こういう大きな古墳は、めったなことで潰されはしないが、直径十数メートルの小さな古墳や集落遺跡は、開発によって風前の灯だ。このいちばん潰されやすい遺跡こそ、民衆の歴史を解く鍵を握っている」。
シンポジウムから神戸に戻った赤松は早速、Γ山家(やまが)の猿、花のお江戸のお芝居」の手記を認めた。「大学教育が古い学問的な権威で売れた時代は終わった。どう宣伝し演出し商品として売るかという時代になった。私をかついだ連中も商品価値ありと見たのだろうが、まだ読みが浅い」
「アンチ柳田に若い人たちはすぐ跳びついて都市民俗学なんて言いよるが、柳田の深さを知っとるんかいな」--柳田を"永遠に輝ける星"と見、なればこそ天皇制護持と結びついた柳田を同じ土俵の上で批判するために、地を這って民俗収集をしたという自負が、赤松にはある。
「われわれ年寄りをダシにせんでも、反乱起こすなら現代の情勢を見て自分たちでやらんかいな」
笑顔でこんなきついことを言う。(文中敬称略)
長井康平(ながい‐こうヘい)1938年、山口県生まれ。松山、神戸支局員。大阪社会部
員、モスクワ特派員、大阪学芸部次長のあと、大阪本社編集委員。
----------------------------------------------------------------------------
今読むと大月隆寛の年齢がまちがっていますな(当時30歳:1959年生まれ)、これは原文ママである。
残念ながらデジタル媒体へのコピーをしていただけず、画面のハードコピーを購入。
帰宅しOCRにかけ文字校正したものである。誤字・脱字は私の校正ミスである可能性が非常に高い。ミスなどのご指摘をいただけたら幸いである。
----------------------------------------------------------------------------
AERA 1989.7.11 P53~
民俗学者の赤松啓介さん(現代の肖像)
赤松啓介は、丁稚小僧から始め香具師も体験した異色の学者である。
労働運動、唯物論、民間信仰と調査研究の対象は広くて深い。
夜道いを語らせたら、彼の右に出るものはいなに違いない。
若くして「柳田民俗学」批判の書を著し注目を浴びる。
人間の体臭とその営みのぬくもりを忘れない民俗学がここにある。
(大阪本社編集委員長井康平、写真福永伸)
「東京からお迎えに行く」という、若い人の申し出を赤松は断って単身、神戸から上京した。4月中旬、東京の早稲田奉仕園で催されるシンポジウムに招かれたのである。
「民俗学する身体--赤松啓介の仕事をめぐって--」と題するシンポジウムのパネリストは一橋大学教授‐阿部謹也(西洋中世史)、神奈川大学短期大学部教授‐網野善彦(日本中世史)、国際日本文化研究センター教授‐山折哲雄(宗教学)、法政大学助教授‐佐藤健ニ(社会学)の4人。近年、著作などで注目を集めている先生たちだ。
シンポジウムとうたわれていたが、実情は赤松の独演会だった。パネリストも聴衆も、この80歳の民俗学者の「夜這い談義」の毒気にあてられてしまったのである。
主催は「都市のフォーク口アの会」、共催は「見えない大学本舗/乱調社」「天下御免商会」などと名乗る得体の知れない(?)グループで、呼びかけのパンフレットにはこんな風に書かれていた。
赤松啓介
世直しライブ・卜-ク
「非常民は自転車に乗って」
民俗学がまだ、大学の講義などに成り上がっていなかった時代--半世紀も前から「あ
るく‐みる‐きく」だけを忠実に実践し続けた野(や)の知性、赤松啓介。ふらりふらりと路上を流して歩く、その眼に映った風景は!?そして、今、このクソッたれた時代に、あの「歩く速度の学問」(民俗学)は未だ可能か!?‐…‐「最後の民俗学者」赤松啓介、熱い視線を浴びて、ついに東京来襲!?
ここ3年ほどの間に赤松の『非常民の民俗文化-一生活民俗と差別昔話』『非常民の民俗境界--村落社会の民俗と差別』『民俗学(復刻)』が、明石書店からたて続けに刊行されて、民俗学の古い研究者たちは「幻の論文に出あえた」と喜ぶし、これから民俗学を志す若い人たちの間には熱狂さえ生まれているという。で、この日のシンポジウムになったというわけだ。かぶりつきの"桟敷席"までぎっしり埋まった聴衆に、司会の東京外国語大学助手‐大月隆寛(35)が叫ぶ。
「赤松先生登場!」
わざわざ後ろから、聴衆をかき分けての登場を演出し、勇壮なメロディーがスピーカーから流れる。小柄な赤松は面映ゆそうな笑顔で席についた。「師範学校の先生がムラヘアンケートをとりに行くので、わたしに『ちょっとついて来て<れんか』という。『このムラには夜道いがありますか』と聞くと『わしらのおじいさん、おばあさんの時代にはあったそうです』なんて返事しとる。それで横向いてべ口出すんです。あとでわたしに『どや、うまいこと言うたやろ』。なんのことはない、その男も夜這いをやっとる。嘘言うたという意識はなくて、ムラのためにうまいこと言うてやったというわけ。正直に言うたら恥になるんです。スラム街の調査でも、決して本当のことば言わん。相手の立場になって考えねばわからんことです」
戦争中の牢屋暮らしでいためてしまったというガタガタの歯だから、話は余分な音がまじって聞きとりにくい。しかし、こんな楽しそうにエロ話をするじいさんはそうめったにいるものではない。聴き耳を立てないわけにはゆかないのだ。「戦後すぐに、淡路の洲本にバンガローをこしらえた。若い男女が泊まる。土地の若い連中は喜んで夜這いをかけた。そうしたら警察は『集団強姦』として、新聞にも大々的に出た。若い連中に言わせたら『向こうからも夜這いに来たらええんや』」
〇魚屋の丁稚とお得意のおかみと
パネリストたちが論ずる。
「民俗学者宮本常一氏の『土佐源氏』は、乞食が放蕩三昧した身の上を物語るのだが、赤松さんは同様に放蕩しながら、その自分をちゃんと見ている。そこに学問がある」(阿部)「最近、東北の津軽の民宿で、じいさんが歓迎の挨拶をしてくれているのだが、酔っていることもあって何を言っているのかさっぱりわからない。酒を飲んだ人と自由自在に話せなければ本当の人の心など到底わからないし、エ口話ができなければ民俗学などはできない。今、民俗学を看板にしている人は、本当にできるのかと疑う」(網野)Γ日本のマルクス主義は信仰とセックスを把握し損なった。民俗学もまたそうだった。その中で赤松さんの先駆性は特筆すベきだ。民俗学者柳田国男は常民を設定して非定住者を差別する装置を巧緻につくり上げた。折口信夫は、その常民を心ひそかに打ち破ろうとした。赤松さんは非常民の民俗学によって民俗学に指針とインパクトを与えてくれた」(山折)「柳田民俗学には欠落している民俗形成のメカニズムに対する目が、赤松民俗学にはある。それと、大阪中央郵便局に勤めていた昭和初年代、当時の左翼はみな、右肩上がりの字で書いていたというような鑑識眼がある」(佐藤)
会場には宮田登(筑波大学)、福田アジオ(国立歴史民俗博物館)の姿もあつた。
司会の大月は赤松に、仕事の遍歴をたずねた。赤松の著作のどこにもまとまった形で、時系列的に遍歴が記されていない。個々の民俗が語られる中で、断片的にあらわれるだけだからだ。たずねられた赤松は、大阪での丁稚奉公時代を話し始め、とうとう丁稚についての具体例を伴う一般的な話になり、魚屋の丁稚とお得意のおかみさんとの睦み合いに進み、「そこのオヤジや息子がどないな顔して丁稚の下ろしたサバを食うか、考えただけでおかしゅうておかしゅうて」と顔をクチャクチャにする。会場は沸くが司会はしびれを切らす。
「民俗学ヘの関心はどんな文脈で」
と話を本筋に戻そうとしても、
「それはまだずっと先のことですわ」
と赤松は意に介さない。
夜這いは共同体の秩序を維持するためでもあった。出稼ぎに出ていて男が少ないムラ、男女の均衡の取れているムラ、ムラの構成によって夜這いのあり方もさまざまなのだ。セガレとムスメはいいが、ゴケはだめというムラ、正月にくじ引きで数が足りないとゴケを加えるムラ、限定的に1年間、男女を固定するムラ、総当たりのムラ…。
夜這いを開放しているムラ同士ならいいが、開放していないムラから来ると、出役という見張り番が見つけて素っ裸にして半殺しにする例もあった。
「夜這いを"おおらかな民俗"と言ったりするアホな都会人が今はいる。実情はそんなんと違う」
と赤松は言う。そして、被差別部落から一般の部落ヘの夜這いは袋叩きにし、逆に被差別部落ヘは出かける。しかし、結婚に結びつくことはなかった、と赤松は指摘する。
夜這いの話はエ口話に終わらない。天皇制国家の思想、教育の支柱となった1890年の
「教育勅語」はΓ一夫一婦制」を掲げるが、義務教育の年限が4年だった時期には、勅語はほとんど浸透せず、後に6年制になってようやく叩き込まれるようになった。
それでも「村が県庁などに出す教育報告はみなインチキだった」と赤松は言う。「学校ヘ4日来てくれたら1年にしてやる」。そんなことをして村の恥をさらさないようにした。1897年の日本の就学率7O%という数字を赤松はせせら笑う。だから「一夫一婦制」はお上の理念でしかなかった。
赤松は教育勅語の偽善性を衝く。「夫婦相和し」をとなえながら遊郭を囲い込んで国が管理し、戦争になれば外国の女性を慰安婦に仕立てあげて戦線を連れ歩く、その構造を怒る。
シンポジウムの最後は、クレージーキャッツ「実年行進曲」の替え歌「赤松行進曲」に会場が声を合わせることだった。
#おいらは赤松文句があるか
髪は白いが思想は赤い
・・・・・・・
神戸市兵庫区の、いかにも神戸らしい細い坂道の途中に赤松の自宅はある。
「赤松啓介」の表札と本名の「栗山一夫」の表札が掛かる。「兵庫県郷土研究会」の小さい看板も。玄関の戸を開けると「返事がないと2階に上がって下さい。難聴です 主人」と張り紙。新聞、雑誌、本の間をすり抜けて2階ヘ。資料にかがみ込んでいる赤松は、客が目の前まで来ないと気がつかない。妻沢枝(63)とは戦後に結婚した。私が赤松宅を訪れた時は、沢枝は京都で教員をしている娘夫婦の育児の手伝いに出かけていた。電話で沢枝をつかまえると、
「あの人は耳が遠いから、私がいったん家を離れると連絡しようがないんです」
と笑う。
1909年、兵庫県加西郡(現加西市)に生まれた。生家は酒造業を営んでいたが、後に没
落。母子家庭で小学校高等科を卒業。神戸、大阪で証券会社給仕を振り出しに、果物屋や廉売市場の丁稚小僧、露店や香具師仲間の下働き、超零細工場工員などを転々とした。
高等科を出て、どうせ中学ヘ行けないならと神戸市の大倉山図書館で歴史物や立川文庫の『真田十勇士』などを読み、好きな勉強で気ままにやろうと思ったという。
17歳ごろ肺尖カタルにかかり郷土で静養することになった。おとなしく寝ていたのは1カ月ほど。そのうち自転車で近辺を走り回るようになった。古墳や廃寺址などを調べ、民俗習慣、方言、昔話の採集も始めている。
父母がかつて小学校の教師をしていたので知り合いが多く、どこでも親切に教えてくれ、人を紹介してくれた。
〇弾圧の対象となるが非転向貫く
3年ほどにわたるこの時の調査を赤松は「第1次調査」という。3歳ぐらい若く見られた。これは大変に得なことだったと後にわかる。大人相手には口をつぐんでしまう人たちが気を許して<れたからである。
この教訓からか、子供集団の民俗を調べる時には、絶対にムラの有力者とかモノ知りとか小学校の校長などにたずねてはならない、というのが赤松の心構えだった。整理されたきれいごとしか聞き出せないし、そういう「権威」を通じて子供に接しても、子供の心を開かせることができないのは、今も同じだ。
ではどうするか。子供が集まって遊んでいる場所で、開き出すことだ。赤松が差し出すグリコのおまけは人気があって、子供たちはすぐ打ち解けたものだ。
香具師稼業も、資料を集める絶好の場だった。まず香具師が観察の対象として面白かった。神戸の新開地や大阪の天満などで、棒にくくりつけた石くれを、地面にいわくありげに立てて口上をのべるだけで大勢の見物人を2時間もくぎづけにした仲間がいたという。切り傷の薬を売るのだが、大変な技量だと驚いた。
22歳で大阪中央郵便局吏員に採用される。日本逓信労組大阪支部委員長など労働運動
に入るとともに日本戦闘的無神論者同盟員として反宗教闘争に。共産党入党。
このころ一方で、大阪府と奈良県の境にある生駒山麓で民間信仰の調査をする。労働運動、唯物論研究、反宗教闘争、日本共産党入党などの一面と民間信仰調査の同居するところが赤松らしい。
行者、オコモリなど、当局が「淫詞邪教(いんしじやきょう)」として摘発するものが主な対象になった。「聞き取り」などという生易しい調査で実態がつかめるものではない。信者にまじり、性と一体化した信仰を体験し、祈祷師の代理までやって調べたものだ。栗山一夫の本名で書いた『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、仲間2人とつくった「ハリマ(播磨)・フォークロア・グループ」で日本の民俗学について討論するための叩き台だった。時代は1936年の2・26事件前後である。議論は結局、「柳田国男をどうとらえるか」だった。
柳田も播磨の神崎郡出身で、赤松の郷里の加西郡とは隣り合う。赤松にとっていわば郷土の大先達だったが親近感は持てなかった。柳田は民衆を平民、常民と言ったが、本当に民衆を愛していたか。
赤松は言う。
「柳田は『郷土生活研究採集手帖』をつくって山村調査の1O0カ条を掲げた。その中に、調査対象に出稼ぎはあるが、小作、地主がない。そういう分類さえしていない。柳田は農政官僚の経験があるから、農村の階級制を知っているはずなのに避けている。柳田民俗学派には、"左翼くずれ"もいて、連中だって当然わかっているのに、黙っている」。『手帖』にいう尊敬される村人となるために日ごろどんな教養を積んだかを調べ、「日本人のみが持つ美質」を明らかにしても、地主による小作米の過酷な取り立ては変わらない、というのだ。
『民俗学の基礎的諸問題に就いて』は、柳田民俗学を批判した初めてのものとされている。これを土台にして『民俗学』が1938年5月に三笠書房の1冊として誕生した。
柳田民俗学を「プチブル民俗学」として批判し、マルクス主義民俗学の立場を鮮明にした名著--と、研究者の問には伝承されていたが、今度の復刻まで、読んだ人はまれだったはず、と福田アジオは「解説」に書く。
赤松の思想と行動は当然、弾圧の対象になった。1933年、郵便局勤めの時期の組合活
動で大阪の警察に検挙されたのを手始めに、唯物論研究会の会員として39年に、神戸の警察に逮捕され、非転向を貫いて戦争末期にようやく釈放されている。
ブタ箱も、赤松にとっては民俗採集の場になった。三食付きで作業もしないで座っているのだから、1日中ムダ話をするほかない。いろんな犯罪でほうり込まれた連中相手だが、シャバのインテリどもよりよほど信用してよい、という感想をもった。
体験した各種の拷問も詳細に記録した。牢名主を頂点とする人間関係、大小の犯罪の実態、そして男色。男が「女」に変えられてゆくさまを、赤松は恐怖感をこめて描写している。
赤松民俗学についてはこれまでの3冊の刊行で、その実相をうかがえるようになった。さらに『戦国乱世の民俗誌』『非常民の生活領域』『天皇帝|起源神話の研究(復刻)』が秋までには出る予定だ。
多くの民俗が急速に失われた結果、戦後の民俗学の衰退は目を覆うばかりである。
例えば、「水口祭(みなくちまつり)」というものが各地にあった。田植え前に苗代で行う神事である。だが、ご存じの減反政策に加えて、稲作農家でさえ、自分の所で苗代をつくらなくなった。四角にかためられた苗を供給されて、田植え機で植える時代だ。神事の成り立ちようがない。
赤松の試みた民俗学は、古い民俗とその解体過程を見つめ、変革への糸口をつかもうとする志に支えられていた。
敗戦による上からの農村共同体の解体、高度経済成長と軌を一にする離村・出稼ぎ、過疎化。昔のような民俗学は、もう不可能になっている。
それだけにストーリー・テラーとしての赤松とその著作は、若い人たちをますます引きつけてやまないだろう。
〇私をかついだ連中も読みが浅い
最近の考古学発掘ブームの華やかさに目を奪われ、忘れられたものに「赤松考古学」がある。やはり明石書店から9月に刊行される予定の『古代緊落の形成と発展過程』は、播磨・加古川流域の古墳調査に基づいた1937年の論考を軸にする。
そのころ大手を振っていた皇国史観による「神代の歴史」の矛盾は民衆の協力を得て古墳を科学的に調べることで衝くことができるという夢が語られている。しかし民衆の動員は敗戦まで待たねばならなかった。
赤松の夢が実現したのは1950年代初めの岡山の月の輪古墳発掘だった。資源学研究
所の和島誠一らとの仕事だったが、学生や民衆1万人が発掘に加わった。付近の町村を始め、東京、京都、大阪などからカンパや米、麦、野菜、みそ、菓子といつた現物が寄せられた。
「真実の歴史を明らかにしたい」という民衆の欲求が古墳発掘と結びついたことを、当時の政治的な"逆コース"の潮流の中で、赤松は何より貴重なものに思った。
4月末、赤松を神戸市の西部、明石海峡に面する五色塚古墳ヘ誘つた。全長2OOメートルに近い兵庫県下では最大の前方後円墳である。1965年、同古墳を史跡公園に復元する工事の現場監督を赤松は委嘱されたのだ。
海からの強風にさらされながら赤松は広い古墳一帯を歩き回って説明してくれた。
当時、現場事務所にいた赤松を、県立兵庫高校の歴史研究同好会の1人として訪ねた財
団法人滋賀県文化保護協会の兼康保明(40)は、赤松が高校生相手に熱心に遺跡の保護
を説くのに感激したという。
「こういう大きな古墳は、めったなことで潰されはしないが、直径十数メートルの小さな古墳や集落遺跡は、開発によって風前の灯だ。このいちばん潰されやすい遺跡こそ、民衆の歴史を解く鍵を握っている」。
シンポジウムから神戸に戻った赤松は早速、Γ山家(やまが)の猿、花のお江戸のお芝居」の手記を認めた。「大学教育が古い学問的な権威で売れた時代は終わった。どう宣伝し演出し商品として売るかという時代になった。私をかついだ連中も商品価値ありと見たのだろうが、まだ読みが浅い」
「アンチ柳田に若い人たちはすぐ跳びついて都市民俗学なんて言いよるが、柳田の深さを知っとるんかいな」--柳田を"永遠に輝ける星"と見、なればこそ天皇制護持と結びついた柳田を同じ土俵の上で批判するために、地を這って民俗収集をしたという自負が、赤松にはある。
「われわれ年寄りをダシにせんでも、反乱起こすなら現代の情勢を見て自分たちでやらんかいな」
笑顔でこんなきついことを言う。(文中敬称略)
長井康平(ながい‐こうヘい)1938年、山口県生まれ。松山、神戸支局員。大阪社会部
員、モスクワ特派員、大阪学芸部次長のあと、大阪本社編集委員。
----------------------------------------------------------------------------
今読むと大月隆寛の年齢がまちがっていますな(当時30歳:1959年生まれ)、これは原文ママである。
PR
トラックバック
トラックバックURL: