上野駅公園口をおりてすぐに国立西洋美術館がある。その隣接した東側に1980年代中頃まで「おかま長屋」という男娼窟が存在していたという。
そこは「竹の台会館」と称した戦後すぐの雰囲気を残す古びた木造建築だったらしく、そもそも東京都が昭和31年に建設した浮浪者の収容施設であった。浮浪者ばかりか上野公園の男娼もまとめて収容したところ居座り続けて、勝手に商売を始めて30年が経過した、というのが事の成り行きのようで、撤去立ち退きの際に管理者であった東京都は、甚だ苦労したようである。この建物は1987年6月に解体され、現在は上野公園・緑の相談所になっているようである。
ここの男娼は基本的にタチもネコも両刀こなし、どちらかというと客層の男性は挿入される方を好んだようであるが、逆もいるとのことであった。かつての同性愛者の雑誌にはその場所での体験談が時折垣間見られるようではあるものの、ネット検索では昭和59年当時に5000円で童貞を捨てたという記事を唯一見つけただけであった(■■■)。そこの男娼たちの素性は今も昔も知るべき術はまったくないのだが、この文章を書くにあたって参照している記事によると、胸などはホルモン注射で大きくしているものの、睾丸摘出を行っている者は一人もおらず、なにがなんだかわからないとのこと。私もノンケなので、よくわからないが、ここの男娼はまあ大抵のどんな性癖でも面倒見てはくれたのであろう。そう解釈しておく。ちなみに昭和昭和23年~33年に上野公園が日没以降立ち入り禁止になったのは、警視総監が男娼に殴られたことがきっかけであったとのことである(■■■)。
私もかつての職場が新宿一・二丁目であった。そのせいかわからないが、同性愛者には少々ご縁があった。帰宅時間の夕暮れ時にあたりまえのように女装者が前から歩いてくる。彼の彼女の心境は私にはわからないが、そうしたい欲求があるからするのだろう。彼等彼女らも昔のようにコソコソ隠れなくてもよくなったのだから、それこそ気兼ねが要らない時代になったのだろう。以前二丁目界隈では最古の部類に入るだろうといわれる、創業30年ぐらいのゲイバーへ何度か行ったことがある。鴻上尚史似というか、村上ショージ似のママというか、まあ見た目もあそこも普通(だと思う)のおじさんに、ティンコをくすぐられながら飲むという、なんだかちょっと甘酸っぱい経験をしたことがある。ある日そのママと従業員二人(二人ともデブでかつては恋人だったらしい)と一緒に店の引けた後、松田聖子のビデオがエンドレスで流れる、これまたカツラを入れたら身長2メートルぐらいある女装店主の飲み屋に連れて行かれたが、幸いにも私の純潔は保たれた。彼女らからもらった「あんたも、行くところへ行けばまだ(性的に)需要はある!」という言葉はモテない私の励ましになったとか。
またかつての同僚はニューハーフだった。彼女の場合は社会的(戸籍など)に男性であっただけで、あとはすべて女性であった。彼女は某国立大学を卒業後、その筋で有名なオカマを慕い上京するも喧嘩して別れ(?)、かつて改造手術の失敗で摘発された大阪の整形外科でヤミ手術をしてもらったそうである。幼少時から女性になりたかったらしく、聞いた話はオカマにありがちな刹那的な楽天さはなく、どちかというとネガティブな性格の持ち主であった。今はどこかの店で雇われママをしているとかいないとか。彼女らは総じて市井の者より深い業を背負ってしまったせいかどうかはわからないが、バイタリティだけは見習うべきものがあったなあと、ちょっと弱気な気分になっている私は、今になって振り返るのである。上野のオカマの記事を読んでいて、彼女らを思い出したので、ここにメモしておくことにする。
参考文献:下川 耿史ほか『女装の民俗学―性風俗の民俗史』、P263~265 上野「おかま長屋」にさよなら特攻-『アサヒ芸能』1986.9.4の記事(批評社 1994年1月)
追記
三橋順子氏は『性の用語集』(講談社学術文庫 2004年12月)でも筆を執っておられる。私はこのページを見るまで生来の女性だと思っており、きわどい言葉の解説ばかりするなあと思っていた。)
■■■
どうやら彼女(彼?)のサイトに書かれた以下の文章にこの竹の台会館成立の遠因があるようである。
1948(S.23)年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を
視察中にトラブルとなり、「とき代」さんという男娼に殴打されという事件が
起こります。以後、警察は上野の山の夜間立ち入り禁止措置など、そのメンツ
にかけて風紀取締狩込み)を強化しまた。これによって上野の男娼の全盛は
終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求
めて散って行ったのでした。
上野公園は戦後葵部落と呼ばれる2000人以上の一大浮浪者集団があった。また下谷(上野)万年町のスラムには関東大震災以降多数の男娼窟が存在していたとのことである(■■■)。やはり場所的にもともと男娼の存在とその需要が多かったところのようでもある。
ここの男娼は基本的にタチもネコも両刀こなし、どちらかというと客層の男性は挿入される方を好んだようであるが、逆もいるとのことであった。かつての同性愛者の雑誌にはその場所での体験談が時折垣間見られるようではあるものの、ネット検索では昭和59年当時に5000円で童貞を捨てたという記事を唯一見つけただけであった(■■■)。そこの男娼たちの素性は今も昔も知るべき術はまったくないのだが、この文章を書くにあたって参照している記事によると、胸などはホルモン注射で大きくしているものの、睾丸摘出を行っている者は一人もおらず、なにがなんだかわからないとのこと。私もノンケなので、よくわからないが、ここの男娼はまあ大抵のどんな性癖でも面倒見てはくれたのであろう。そう解釈しておく。ちなみに昭和昭和23年~33年に上野公園が日没以降立ち入り禁止になったのは、警視総監が男娼に殴られたことがきっかけであったとのことである(■■■)。
私もかつての職場が新宿一・二丁目であった。そのせいかわからないが、同性愛者には少々ご縁があった。帰宅時間の夕暮れ時にあたりまえのように女装者が前から歩いてくる。彼の彼女の心境は私にはわからないが、そうしたい欲求があるからするのだろう。彼等彼女らも昔のようにコソコソ隠れなくてもよくなったのだから、それこそ気兼ねが要らない時代になったのだろう。以前二丁目界隈では最古の部類に入るだろうといわれる、創業30年ぐらいのゲイバーへ何度か行ったことがある。鴻上尚史似というか、村上ショージ似のママというか、まあ見た目もあそこも普通(だと思う)のおじさんに、ティンコをくすぐられながら飲むという、なんだかちょっと甘酸っぱい経験をしたことがある。ある日そのママと従業員二人(二人ともデブでかつては恋人だったらしい)と一緒に店の引けた後、松田聖子のビデオがエンドレスで流れる、これまたカツラを入れたら身長2メートルぐらいある女装店主の飲み屋に連れて行かれたが、幸いにも私の純潔は保たれた。彼女らからもらった「あんたも、行くところへ行けばまだ(性的に)需要はある!」という言葉はモテない私の励ましになったとか。
またかつての同僚はニューハーフだった。彼女の場合は社会的(戸籍など)に男性であっただけで、あとはすべて女性であった。彼女は某国立大学を卒業後、その筋で有名なオカマを慕い上京するも喧嘩して別れ(?)、かつて改造手術の失敗で摘発された大阪の整形外科でヤミ手術をしてもらったそうである。幼少時から女性になりたかったらしく、聞いた話はオカマにありがちな刹那的な楽天さはなく、どちかというとネガティブな性格の持ち主であった。今はどこかの店で雇われママをしているとかいないとか。彼女らは総じて市井の者より深い業を背負ってしまったせいかどうかはわからないが、バイタリティだけは見習うべきものがあったなあと、ちょっと弱気な気分になっている私は、今になって振り返るのである。上野のオカマの記事を読んでいて、彼女らを思い出したので、ここにメモしておくことにする。
参考文献:下川 耿史ほか『女装の民俗学―性風俗の民俗史』、P263~265 上野「おかま長屋」にさよなら特攻-『アサヒ芸能』1986.9.4の記事(批評社 1994年1月)
追記
三橋順子氏は『性の用語集』(講談社学術文庫 2004年12月)でも筆を執っておられる。私はこのページを見るまで生来の女性だと思っており、きわどい言葉の解説ばかりするなあと思っていた。)
■■■
どうやら彼女(彼?)のサイトに書かれた以下の文章にこの竹の台会館成立の遠因があるようである。
1948(S.23)年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を
視察中にトラブルとなり、「とき代」さんという男娼に殴打されという事件が
起こります。以後、警察は上野の山の夜間立ち入り禁止措置など、そのメンツ
にかけて風紀取締狩込み)を強化しまた。これによって上野の男娼の全盛は
終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求
めて散って行ったのでした。
上野公園は戦後葵部落と呼ばれる2000人以上の一大浮浪者集団があった。また下谷(上野)万年町のスラムには関東大震災以降多数の男娼窟が存在していたとのことである(■■■)。やはり場所的にもともと男娼の存在とその需要が多かったところのようでもある。
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LP1枚の時間で、3000円であった。
赤い電灯がともり、異様であったなあ。
梶さんが来ると言っていた、梶山李之の事ですよ。