タイトルに「かわつるみ」と書いておきながら、一切触れていなかったので書いてみようかと思う。こんな更新の少ないブログに「かはつるみ」の検索で来て頂く方もいらっしゃるので申し訳なく感じておりました。
正月早々気まぐれに、適当な文章をブログなんてものに書くのもまた「かわつるみ」のようなもの。ジャン・コクトーもそんなことを言っていたような気もするが、そんな高尚なものでもない、タイトルにこんな言葉を入れたのも単に自分の独りよがりを自嘲しただけなのである。
ご存じの通り「かわつるみ」とは「オナニー」のことである。特に「かわつるみ」とは『宇治拾遺物語』十一 「源大納言雅俊、一生不犯の鐘打たせたる事」が出典であり、田中貴子によればこの用語はこの説話でしか発見されておらず、当時オナニーが他にどう呼ばれていたかはまったくわからないとのことである(1)。
(読み下し文)
これも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。
仏事をせられけるに、仏前にて、僧に鐘を打たせ て、
一生不犯なるを選びて、講を行なはれけるに、ある僧の礼盤にのぼりて、
すこし顔気色、違ひたるように成て、
鐘木をとりてふりまはして、打ちもやらで、しばしばかりありければ、
大納言、いかにと思はれけるほどに、やや久しく物もいはでありければ、
人どもおぼつかなく思ひけるほどに、この僧、わななきたる声にて、
「かはつるみはいかが候べき」と言ひたるに、
諸人、頤(おとがい)を放ちて笑ひたるに、
一人の侍ありて、「かはつるみは、いくつばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、
この僧、首をひねりて、「きと夜べもして候ひき」と言ふに、大かた、
とよみあへり。そのまぎれに、早よう逃にけりとぞ。
(現代語訳)
京極の源大納言雅俊が仏事を行う際に、仏前で鐘を打たせる僧には
「一生不犯」、すなわち生涯女性とセックスはしないと誓ったものを選んで
法会を営んでいたものの、
そうして選ばれた僧が登壇したはいいが、顔色が悪く、
鐘を鳴らす撞木も振り回すばかりで、固まってしまっていた。
周囲が心配しはじめた頃、この僧が震える声で
「手コキはどうなんでしょうか」と言い出したので、
皆あごが外れるほど笑った。
ある大納言の家来が「手コキは、どんだけしているんですか」と尋ねると、
僧侶は首をひねって「ちょっと昨晩もいたしました」と答え、また大受けした。
僧侶はそそくさと退出してしまった。
仏教においては戒律というものがある以上、欲情を持つこと自体、ましてオナニーというごく個人的な行為ですら本来ならば僧侶にとっては許されないが、別に殺されるわけでない。僧侶として不適格なので、追放されるぐらいなのであろう。
しかし日本仏教においては僧侶の妻帯はおろか男色、はたまた子孫を残すことさえ早くから当たり前になっているため、オナニーで射精するぐらいはこれっぽっちも背徳を感じているとも思えない。
だが周囲の爆笑を誘ったこの僧侶の告白は、彼にとって多少事情が異なっていたと思われる。それは彼が仏事において鐘をつく「一生不犯」の僧侶だったからである。彼の存在は仏事成功(=現世利益を主体とした物と思われる)を左右する重大事である。
だから僧侶の心の負い目は至極もっともな話だった、すなわちこのとき仏事などにおいて金属器である鐘を打つ行為は「自分は一生不犯であり、ウソをついていない」という起請を性格としているので、それに背いた場合は仏(神)罰を受けても当然なのだ(2)。この時代に限らず仏罰・神罰が往事の僧侶にとってどれだけ恐ろしいものであったかは、現代人には到底計り知れないが、故に鐘を打つのをためらい、こんな間抜けな発言に至った気の毒な僧侶の話だったのだ。
まあ厳粛な場で「手コキはどうなんでしょうか」と発言するのも糞まじめすぎて、どうなのかとも思いますが。
(1)田中貴子・田中圭一『セクシィ古文!』P112~117「手コキしてもいいですか」(メディアファクトリー 2008年5月)は非常にわかりやすく、また田中圭一の手塚調のマンガでもこの話が掲載されている。訳もこのマンガを参考にいたしました。
(2)勝俣静夫『一揆』P34~36(岩波新書 1982年6月)
ご存じの通り「かわつるみ」とは「オナニー」のことである。特に「かわつるみ」とは『宇治拾遺物語』十一 「源大納言雅俊、一生不犯の鐘打たせたる事」が出典であり、田中貴子によればこの用語はこの説話でしか発見されておらず、当時オナニーが他にどう呼ばれていたかはまったくわからないとのことである(1)。
(読み下し文)
これも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。
仏事をせられけるに、仏前にて、僧に鐘を打たせ て、
一生不犯なるを選びて、講を行なはれけるに、ある僧の礼盤にのぼりて、
すこし顔気色、違ひたるように成て、
鐘木をとりてふりまはして、打ちもやらで、しばしばかりありければ、
大納言、いかにと思はれけるほどに、やや久しく物もいはでありければ、
人どもおぼつかなく思ひけるほどに、この僧、わななきたる声にて、
「かはつるみはいかが候べき」と言ひたるに、
諸人、頤(おとがい)を放ちて笑ひたるに、
一人の侍ありて、「かはつるみは、いくつばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、
この僧、首をひねりて、「きと夜べもして候ひき」と言ふに、大かた、
とよみあへり。そのまぎれに、早よう逃にけりとぞ。
(現代語訳)
京極の源大納言雅俊が仏事を行う際に、仏前で鐘を打たせる僧には
「一生不犯」、すなわち生涯女性とセックスはしないと誓ったものを選んで
法会を営んでいたものの、
そうして選ばれた僧が登壇したはいいが、顔色が悪く、
鐘を鳴らす撞木も振り回すばかりで、固まってしまっていた。
周囲が心配しはじめた頃、この僧が震える声で
「手コキはどうなんでしょうか」と言い出したので、
皆あごが外れるほど笑った。
ある大納言の家来が「手コキは、どんだけしているんですか」と尋ねると、
僧侶は首をひねって「ちょっと昨晩もいたしました」と答え、また大受けした。
僧侶はそそくさと退出してしまった。
仏教においては戒律というものがある以上、欲情を持つこと自体、ましてオナニーというごく個人的な行為ですら本来ならば僧侶にとっては許されないが、別に殺されるわけでない。僧侶として不適格なので、追放されるぐらいなのであろう。
しかし日本仏教においては僧侶の妻帯はおろか男色、はたまた子孫を残すことさえ早くから当たり前になっているため、オナニーで射精するぐらいはこれっぽっちも背徳を感じているとも思えない。
だが周囲の爆笑を誘ったこの僧侶の告白は、彼にとって多少事情が異なっていたと思われる。それは彼が仏事において鐘をつく「一生不犯」の僧侶だったからである。彼の存在は仏事成功(=現世利益を主体とした物と思われる)を左右する重大事である。
だから僧侶の心の負い目は至極もっともな話だった、すなわちこのとき仏事などにおいて金属器である鐘を打つ行為は「自分は一生不犯であり、ウソをついていない」という起請を性格としているので、それに背いた場合は仏(神)罰を受けても当然なのだ(2)。この時代に限らず仏罰・神罰が往事の僧侶にとってどれだけ恐ろしいものであったかは、現代人には到底計り知れないが、故に鐘を打つのをためらい、こんな間抜けな発言に至った気の毒な僧侶の話だったのだ。
まあ厳粛な場で「手コキはどうなんでしょうか」と発言するのも糞まじめすぎて、どうなのかとも思いますが。
(1)田中貴子・田中圭一『セクシィ古文!』P112~117「手コキしてもいいですか」(メディアファクトリー 2008年5月)は非常にわかりやすく、また田中圭一の手塚調のマンガでもこの話が掲載されている。訳もこのマンガを参考にいたしました。
(2)勝俣静夫『一揆』P34~36(岩波新書 1982年6月)
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色々な言葉で、検索をするのが面白く、時々遊んでおります。
特に、日本語の性の描写は興味あります。
しかし、やはり、アダルト的な表現のため、検索できなくなっています。助平な小生としては、それに挑戦するように努めています。