そういえば秀吉の墓はどこにあるのだろうと思った。
秀吉は家康にとって目の上のたんこぶだったはずだが、
墓所の所在地は平凡社の『世界大百科事典』にも記述が見られない。
豊臣秀吉
とよとみひでよし
1536‐98(天文5‐慶長3)
(略)
[晩年の秀吉] 検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国
支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として
与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国
を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なご
や)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征
に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽
成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親
王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜
多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計
画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の
描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展してい
く。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着に
よって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や
勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂
し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したこと
などから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局
の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負
担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな
花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案
じながら,五大老,五奉行に遺言を残して世を去った。
(略) 三鬼 清一郎
秀吉の死後豊臣は幕府への恭順を拒否し滅亡、
これは歴史上周知の出来事である(大坂冬・夏の陣)。
■■■
明治になってから再発見されたとは意外であった。
なるほど江戸時代を通して大っぴらな法要すらしていないとは、
生前の栄華を鑑みると無情この上ない話ではある。
追記(12:27)
『本朝通鑑』によれば慶長4(1599)年春、秀吉の墓が鳴動したという。
折しも翌年は豊臣が斜陽となるきっかけになった関ヶ原の合戦が起こっている。
古来墓が鳴動するとういう現象はその一族の危機ととらえられていた。(*1)
秀吉も豊臣一族の滅亡を危惧して墓を鳴動させたとはこれも意外であった。
ちなみに信長及び家康はこのような事例が認められていないようである。
また秀吉の死後正妻北政所は墓所のあった豊国社に
日参する毎日を送っていたようである。
徳川による大坂方の徹底的な粛清は豊臣を根絶やしにしようとする
前代未聞のものだったが、
それは秀吉の霊廟(墓所)にも及ぼうとしていた。
大阪の陣終了後の慶長16年7月9日、二条城にて徳川家康及び南光坊天海、
金地院崇伝、京都所司代板倉勝重は豊国社の破却を決定した。
推進者は秀忠の側近本多正信と考えられる。
だが北政所の家康への必死の嘆願により破却は免れたが、
「崩れ次第」朽ちるに任せるというものだった。
結局豊国社は天台宗延暦寺門跡の妙法院が相続したが、
最終的になし崩しで引導を渡したのは妙法院のようである。(*2)
再発見されるまで跡形もなかったとのことである。
当然の如く家康の死因は秀吉の祟りとか、
豊国社破壊の祟りとかいう噂も流れていたようで、
「崩れ次第」とは言いながらも細々と神仏事は行っていたようではある。
そんな妙法院も100年、150年忌をしていた節が見られるのは、
やっぱり祟りが怖かったのだろうか。
*1 笹本正治『鳴動する中世-怪音と地鳴りの日本史』P29~30(朝日選書 2000年2月)
*2 津田三郎『北政所-秀吉歿後の波乱の半生』P196~228(中公新書 1994年7月)
追記(2010/03/24)
先日琵琶湖の竹生島へ行く機会があった。
現地宝厳寺には豊国廟極楽門の遺構と言われる唐門があった。
墓所の所在地は平凡社の『世界大百科事典』にも記述が見られない。
豊臣秀吉
とよとみひでよし
1536‐98(天文5‐慶長3)
(略)
[晩年の秀吉] 検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国
支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として
与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国
を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なご
や)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征
に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽
成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親
王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜
多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計
画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の
描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展してい
く。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着に
よって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や
勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂
し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したこと
などから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局
の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負
担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな
花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案
じながら,五大老,五奉行に遺言を残して世を去った。
(略) 三鬼 清一郎
秀吉の死後豊臣は幕府への恭順を拒否し滅亡、
これは歴史上周知の出来事である(大坂冬・夏の陣)。
■■■
明治になってから再発見されたとは意外であった。
なるほど江戸時代を通して大っぴらな法要すらしていないとは、
生前の栄華を鑑みると無情この上ない話ではある。
追記(12:27)
『本朝通鑑』によれば慶長4(1599)年春、秀吉の墓が鳴動したという。
折しも翌年は豊臣が斜陽となるきっかけになった関ヶ原の合戦が起こっている。
古来墓が鳴動するとういう現象はその一族の危機ととらえられていた。(*1)
秀吉も豊臣一族の滅亡を危惧して墓を鳴動させたとはこれも意外であった。
ちなみに信長及び家康はこのような事例が認められていないようである。
また秀吉の死後正妻北政所は墓所のあった豊国社に
日参する毎日を送っていたようである。
徳川による大坂方の徹底的な粛清は豊臣を根絶やしにしようとする
前代未聞のものだったが、
それは秀吉の霊廟(墓所)にも及ぼうとしていた。
大阪の陣終了後の慶長16年7月9日、二条城にて徳川家康及び南光坊天海、
金地院崇伝、京都所司代板倉勝重は豊国社の破却を決定した。
推進者は秀忠の側近本多正信と考えられる。
だが北政所の家康への必死の嘆願により破却は免れたが、
「崩れ次第」朽ちるに任せるというものだった。
結局豊国社は天台宗延暦寺門跡の妙法院が相続したが、
最終的になし崩しで引導を渡したのは妙法院のようである。(*2)
再発見されるまで跡形もなかったとのことである。
当然の如く家康の死因は秀吉の祟りとか、
豊国社破壊の祟りとかいう噂も流れていたようで、
「崩れ次第」とは言いながらも細々と神仏事は行っていたようではある。
そんな妙法院も100年、150年忌をしていた節が見られるのは、
やっぱり祟りが怖かったのだろうか。
*1 笹本正治『鳴動する中世-怪音と地鳴りの日本史』P29~30(朝日選書 2000年2月)
*2 津田三郎『北政所-秀吉歿後の波乱の半生』P196~228(中公新書 1994年7月)
追記(2010/03/24)
先日琵琶湖の竹生島へ行く機会があった。
現地宝厳寺には豊国廟極楽門の遺構と言われる唐門があった。
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