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2024/07/06 08:44 |
空襲のこと


身内の空襲体験等

先の大戦中米軍のB-29による空襲が日本各地に展開されたが、中でも多摩地区は中島飛行機の工場などが集中していたので、その初期の段階から爆撃目標として設定されていた。米軍も当初は人道的観点から軍事施設や工場などへのポイント爆撃を行なっていたものの、効果の面から軍上層部はこれを疑問視、後に戦略爆撃のカリスマとなるカーティス・E・ルメイがその指揮をとるようになると、合理主義者だった彼の性格が前面に出て都市無差別爆撃へと性格が変化する。爆撃の精度をあげるために日本軍の防空能力弱体化を読み、夜間の低空進入と新型焼夷弾による爆撃は、大規模な火災を引起し都市機能を次々と麻痺させ、圧倒的な戦力差を見たことはすでに多く語られていることである。

私の父親は爆撃が激しくなる昭和20年当時2~3歳であるが、空襲警報の発令される中に、銀色のヒラヒラしたものが空から落ちてきたのを記憶しているという。それはB-29が爆撃のために低空で進入してくる際、レーダーの電波攪乱用にばら撒く銀紙(チャフ)だという。祖母は焼夷弾の落ちる音とB29のエンジン音が記憶に一番あるようであった。そのころ祖父は中島飛行機のどこかの工場でエンジンの製造を行なっていたようだが、爆撃により生産ラインに壊滅的打撃を受けるようになってしまった現場で働いていたのかどうかはわからない。徴用されていたのだろうから多摩地区の地下工場で飛行機生産を継続していたのだろうか。

かつて法人への飛込営業をしていた15年以上前の話、初台の駅前で歩きつかれてぼんやりしていたことがある。通りがかりのおじさんにいきなり話しかけられた。新宿はB-29の空襲で焼け野原になり、ここ初台から伊勢丹のデパートが見えたのだという。当時10代半ばの彼は勤労動員でやはり中島飛行機の工場で毎日働かされた苦労を私に語った。私はただ相槌を返すだけだった。今、目の前にそびえる高層ビル群と高速道路のない風景が私にはなかなか想像できなかった。


爆弾除け

空襲はそれまで割と暢気だった日本人の生活を、戦争という現実に引き込んだ現象だったのだろう。当時、空襲は民間人を恐怖のどん底に突き落とし、たまたま現場に居合わせて被害にあったり、助かったりしたことが多かったからなのか、「爆弾除け」の迷信が巷間で囁かれるようになっていく。B-29が飛来するようになった昭和19年末から昭和20年初頭にかけての時分の話だと考えられる。近代日本民衆思想史研究者の川島高峰氏の著書(*1)によれば、その中でポピュラーなものは「らっきょう」であったという。

   「赤飯に『らっきょう』を食べたら爆弾に当たらない。其の話を聞いてから
   三日以内に喰わなければ爆弾に当たってしまう。」

また作家高見順の日記には、
   
   「金魚を拝むと爆弾に当たらないという迷信が流布し、生きた金魚が入手困難
   のところから、瀬戸物の金魚まで製造され、高い値段で売られている」

とも書かれているとある。これはまったく同様の体験談が作家吉村昭によって書かれている。(*2)

   その頃、妙な話が人々の間にひそかに流れた。金魚をおがむと爆弾で死ぬこと
  はない、という。私の家にある三坪ほどの池には鯉とともに金魚が飼われていた
  が、見知らぬ高齢の女性が来て、金魚を分けて欲しい、と何度も頭を下げて頼
  む。母は、複雑な表情をしてそれに応じ、金魚をすくって女性の手にしたバケツ
  に入れてやった。

この話も当時かなり広汎に信じられたのだろう。

他にもこの類の話として、松山巌が例として「件(くだん)」の出現を挙げている。(*3)

  「神戸地方では『件』が生れ自分の話を聞いた者は之を信じて三日以内に小豆飯
  か『おはぎ』を喰へば空襲の被害を免れると言った相だ」

「件」とは漢字のつくり通り、人と牛の合わさった怪物のような動物で、松山によれば不況下であった昭和初期の西日本で発生した「うわさ」であるという。その動物が空襲の不安に苛まれる都市民の心性に甦る。

私はまたこれらの中で「赤飯」と「小豆飯」・「おはぎ」の共通項である「小豆」にはどういった意味があるのだろうかと考えるのだが、小豆はめでたいものということもさることながら、俳人の中村汀女は小豆が少しでもそこにあると言う安心感を古今問わない女性のものと見てその思い出を書いており(*4)、これらの爆弾除けは女性の口から出たものなのかなと、漠然とながら感じている。考えてみれば若い男性が少なくなっている状況下で、圧倒的多数は女性と子供なのだから、当然といえば当然か。

「らっきょう」に関してはこれに似た「玉ねぎ」という話もあるらしいが、これら葷菜の由来はわからない。魔除けとかの意味があるのだろうか。(追記参照)


B-29の搭乗員

B-29の拠点となったのはサイパン島である。日本本土への大規模な空襲はこの島を米軍が奪取したことから可能となった。B-29の航続距離はこの島と日本本土との往復でギリギリの5,200kmである。私はB-29の搭乗者にもなにかジンクスみたいなものがあるのではないだろうかと思い、ある一冊の著書を読んでいたのだが、縁起を担いでいるような話は爆撃機の機首のノーズアート(機首部分に描かれた様々な絵画)の女性の絵の名前を、「なんとなく運がよさそうに感じて妹の名前にした」(*5)ぐらいで、神に祈るとかはあるもののそのほかはまるっきり見られなかったので、少々肩透かしを食った気分である。この本によれば、搭乗員は1000名以上戦死し、機体の損害は200機以上を数えていたらしいので期待したのだが、あまり弾除けとか撃墜除けとかいう考えはないみたいである。戦場におけるパイロットの迷信として、ある迷信事典(*6)には次の記述が見られるくらい。

   1940年のブリテンの戦闘(Battle Of Buritain)において、英空軍がドイツ空軍
  を英国上空に迎え撃った時、出撃するパイロットたちは、故意にベッドを整えず
  にそのままにして打って出た。それが彼らの帰還を保証する方法だと信じていた
  からである。

またよく記録フィルムなどで見られる爆弾に字を書く行為は、同じ迷信事典には、



   第二次大戦の最中に、こうすれば弾丸が確実に的に当たるとおぼろげに信じ
  て、弾丸や薬莢に名前や戯画を走り書きした、軍需工場の工員たちの習慣があげ
  られる。

とある。あれは弾の命中を祈願したものであるとは少々驚きであった。


(*1)川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫 2004年12月)「空襲と戦意」P242~243
(*2)吉村昭『東京の戦争』(ちくま文庫 2005年6月)「空襲のこと[前]」P17~18
(*3)松山巌『うわさの遠近法』(講談社学術文庫 1997年7月)「"清潔な帝国と敗戦"」P397、「件」に関しては同書P341~。また「件」及び 「件」 を参照。
(*4)週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』上(朝日文庫 1987年6月) 中村汀女「小豆」P85~
(*5)チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記』(ネコパブリッシング 2001年5月)P231~232
(*6)デービッド・ピカリング『カッセル英語俗信・迷信事典』(大修館書店 1999年6月)「戦争」P372~373

掲載写真は NHKスペシャル 終戦60年企画 「こうして日本は焦土となった」~都市爆撃の真実~(2005.08.11) よりキャプチャした。

追記(2007/05/18 21:33)
『紙屋悦子の青春』という映画があるようである。
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2007/05/18 21:08 | Comments(0) | TrackBack() | 雑感

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