『あしたのジョー』における矢吹君の大好物
そろそろトマトが安くなってくる時期である。サラダなどでの食べ方が一般的だとは思うが、私が一番好きなはトマトの食べかたはやはりサンドイッチである。マヨネーズをたっぷりぬってトマトの薄切りをのっけて、かぶりつく。小さな頃からトマトのジューシーさが好きで、幸いにも青臭さは少年時代の私にはあまり気にならなかった。きっかけはアニメの『あしたのジョー2』を見ていたからだと思う。私の記憶では成長期のジョーが対戦を前に激しく減量中、丹下段平がその無理な減量をやめさせようとする際に差し入れた食べ物を拒絶する。大好物を目の前に置かれても、精神力で拒否するジョーの態度が痛々しいかった。それが紀ちゃんが作ってきた「矢吹君の大好物のトマトのサンドイッチ」だったが(*1)、コミックではその場面が描写に出てこない。トマトのサンドイッチが出てくるのは紀ちゃんとの束の間のデートの場面だった(画像参照)。大好物とまでは書かれていないが、アニメではそう言っていた記憶がある。
かたくなまでのジョーの態度が、トマトのサンドイッチを私の中でうまそうなものにしたのだと思う。正直な話『あしたのジョー』にはほとんど興味がなく、トマトのサンドイッチにしか目が行っていないのは、単に私の食い意地が張っているからなのだろう。ちなみにこのジョーの大好物という設定は、不確かながら原作者高森朝雄(梶原一騎)のものではないと思われる。ジョーと紀ちゃんのデートから「矢吹君の考えにはついていけない」と訣別するシーンは、作画ちばてつやの創作であることが明らかであるため、このトマトのサンドイッチもおそらくそれに付随している事柄だと思われるからである(*2)。ちばてつやの大好物でもあるのだろうか。
ジョーのトマトのサンドイッチの成立までについて
トマトが一般家庭に普及するのはもう少し後になるというが、戦中にトマトが植えられていた証言や(*3)、原爆炸裂後に食べたトマトのことや(*4)、林房雄の『大東亜戦争肯定論』などにも昭和20年の8月に手作りのトマトを収穫した歌が詠まれたりしているし(*5)、百科事典の類では独特の臭みで当初は栽培されず、昭和初期に食生活の洋風化が進行して第二次大戦後普及するとあるが(*6)、食糧難の時代に「えぐい味」が嫌で死ぬ気で食べていたのに、そのうち「えぐい味」が好きになった人もいたようで(*7)、結構戦中戦後にはすでに庶民の口には旬のものとして口に入っていたのだと思われる。さらにトマトのサンドイッチに不可欠となるパンとマヨネーズはやはり戦後の産物である。パンはアメリカの日本の市場拡大を見越した小麦の輸出に力を入れた結果、学校給食などでも普及がはかられたし(*8)、マヨネーズはその消費拡大が爆発的に伸びるのが昭和40年以降(*9)であるが、これはおそらく流通各社の成長時期である昭和30年代後半の現象と無関係ではないと思う。『あしたのジョー』連載時期(昭和43-48年)は、これら具材が巷に普通に揃いはじめ一般化した時期なのだと考える。でも紀ちゃん家の家業は雑貨屋だったなぁ。
追記(2007/05/10)
原作はどうだかわからないが、野坂昭如の『火垂るの墓』のアニメ映画にて米軍機の機銃掃射を受けた清太と節子が逃げ込んだのが、道路脇のトマト畑であった。ひもじい二人が盗み食いをする場面を確認。
トマトは野菜か果物か
トマトが日本にもたらされたのは17世紀半ばに中国か南方経由によるものと考えられており、当初は観賞用として栽培されていた。じゃがいもなどと似たような扱いだったかと考えられる。食用としての栽培は,明治初年,開拓使による新品種の再導入を機に始まるが、食味が一般の嗜好(しこう)にあわず,栽培は大正末ごろまでわずかであった(*10)。その後先にも述べたように戦後普及するのだが、やはり当初は果物と捉えられていたようである(*11)。それがいつ頃までなのかはわからないが、私の祖母はトマトに砂糖をかけて食べていたことを思い出す。ウィキペディアを見ると、韓国や中国においてトマトが果物とみなされたため砂糖をかけて食すらしく(*12)、おそらく日本でもかつてはそうやって食べていた人は多かったに違いない。韓国や中国のトマトの作付け面積の推移はわからなかったが、おそらくそれほど多いものではなかったゆえに果物扱いだったのではないだろうか。日本でも大正末期から昭和10年にかけて、作付面積が急増している(*10:カゴメのHP参照)ことからも、果物から野菜への価値転換はこのころだったのではないかと思う。今度祖母に聞いてみようかと思う。
(参考)
平凡社世界大百科事典
アンデス高原地方では,アメリカ大陸発見以前からトマトが食用として栽培されていたといわれ,インディアンの移住によってアンデス高原からしだいに中央アメリカやメキシコに伝播(でんぱ)した。ヨーロッパへは大陸発見後,16世紀の初めにイタリアに導入されたが,当初は観賞用として栽培されたにすぎず,18世紀中ごろになって食用として栽培されるようになった。北アメリカへは18世紀の後半に導入された。アメリカ,イタリア両国では19世紀に入って急速に栽培が増加し,現在世界の主要な生産国となっている。日本へは18世紀初めの貝原益軒の《大和本草》に〈唐ガキ〉と記されていることから,それ以前に南方や中国を経て渡来したとみられている。当時は観賞用として栽培されるのみで,食用としての栽培は,明治初年,開拓使による新品種の再導入を機に始まる。しかし食味が一般の嗜好(しこう)にあわず,栽培は大正末ごろまでわずかであった。昭和に入ってから食生活の洋風化に伴って需要が増加し,また加工利用の道も開けて,その栽培は急速に増えた。
『小学館 スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典』
【起源と伝播】
トマトの起源と普及は新しく、栽培トマトの成立は紀元後1000年ころと推定されている。現在広く世界で栽培されているトマトの祖先種は、その一つの変種ケラシフォルメvar. cerasiforme Alef.である。これには野生型と、もっとも原始的な栽培型がある。この分布地域はトマト属の野生種と同じくエクアドルからチリ北部に至る幅150キロの狭長な海岸地帯(赤道から南緯30度)であるが、さらに北はメキシコの南部から中央部の東海岸沿いの低地にまで及ぶ。とくにベラクルスを中心として豊富に自生し、その栽培型も明らかに栽培トマトとの移行型を示す種々な型がある。したがって、トマト属野生種の中心であるペルーにおいてケラシフォルメの野生型から栽培型が成立して、メキシコ地域において現在みられるもっとも進化したトマトが成立している点から、メキシコ起源であると考えるのが正しい。この地域はアステカ文化圏で、アステカ人は好んでホオズキを食用に供し、トマトに似たホオズキの育成・栽培をしていることから、ケラシフォルメの栽培と育成に努めたことが想像できる。またアステカ人はその栽培トマトの品種の語尾にナワトゥル語のトマトルtomatlをつけた。このことばが世界各国に伝播(でんぱ)した。新大陸発見後、1523年のスペインのメキシコ征服後、スペイン人によってヨーロッパに入り、44年イタリアに、75年イギリスに、さらに中欧諸国に伝播した。最初は観賞用で、食用に供したのは18世紀以降である。アメリカには18世紀末にヨーロッパから入ったが、19世紀末までは普及しなかった。アジアへはスペイン人によって太平洋経由でフィリピンに入り、1650年以降マレーシア東部でも栽培された。日本へは寛文(かんぶん)年間、1670年ころに長崎に伝来し、『大和本草(やまとほんぞう)』(1709)に記載されている。その後、明治初年に開拓使によって欧米から品種が導入され、赤茄子(あかなす)の名で試作された。しかし当時は独特の臭みのため普及せず、大正時代に入って、北海道と愛知県を中心として栽培が増加したが、現在のように普及をみたのは第二次世界大戦後である。〈田中正武〉
(*1)■■■
(*2)斎藤貴男『梶原一騎伝-夕やけを見ていた男』(文春文庫 2005年8月)「あしたのジョー」P185~
(*3)■■■(戦争中はトマトが結構植わっていたようです)
(*4)■■■(原爆炸裂後の広島のトマト)
(*5)林房雄『大東亜戦争肯定論』(番町書房 1970年11月)「トマトの歌」P625~
(*6)平凡社『世界大百科事典』及び『小学館 スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典』「トマト」の項
(*7)■■■(食糧難でトマト好きに)、(*8)■■■(アメリカの戦後戦略の一環としてのコムギ)、 ■■■(山パン)、 ■■■(学校給食)。
(*9)■■■(マヨネーズ消費量の急増は昭和40年以降)、■■■(マヨネーズ=キューピー)
(*10)平凡社『世界大百科事典』及び『小学館 スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典』「トマト」の項、■■■(トマトといえばカゴメ)。
(*11)■■■(トマトは野菜か果物か)
(*12)■■■ 「利用」の項参照
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