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2024/07/06 09:10 |
磐城無線電信局原町送信所(原町無線塔)
先程野方配水塔の記事を書いていて思い出したのだが、私は幼少の頃巨大な煙突のような建造物を見た記憶がある。母親の実家に帰省する際に、停車した常磐線原ノ町駅のホームからすぐそばにそれはあった。
 


左の写真の出典 ■■■
右の写真の出典 ■■■

その巨大な鉄筋コンクリート建築は無線塔であり、高さは200メートルを超えていた。停車した車窓から見るその異形なコンクリートの塊は幼少の私には少々不気味に感じたのか、かなり強烈な記憶として今に至る。

やはり老朽化のために現在はすでに解体されており二度と見ることができないのは残念な話である。


(追記 2011/03/19)
一週間前の金曜日(3/11)に宮城県沖で起こったM9.0の大地震により、未曾有の津波が岩手から千葉にかけての太平洋沿岸部を一瞬にして飲み込み、大災害となった。

私の母親の実家も例外ではなく母屋は改築の際に1メートル程高くしたから、また港湾施設近くに建設された火力発電所が幸いしたのか、水没を免れたが、田んぼは海水で水浸しになった。ハウスの苺も、今年の米も絶望的であるとのこと。

幸い叔父の家族は全員避難して無事、港の方に嫁いだいとこも無事であったという(ただ嫁ぎ先の一家内では犠牲者が出ている模様だが。)。先日電気も復活、食料も被害が甚大だった福島沿岸部の割にちゃんと食べているとの連絡があった。このあたりもともと昔から存在している古い集落はすべて高台に存在していたからなのか、おしなべて被害は耕作地である田んぼであり、家屋は災害を免れたようだ。

だが一歩高台を超えた先、今回報道でも頻繁に見た現在の役場がある平地の広がる場所(かつての隣村である)はあっという間に津波にのみ込まれてしまった。ここは恐らく網野善彦がかつて対談等にて述べていたが、資本が入り作られた東北の耕作地であり、割合新しく入植が行われたのであろう。母親もあの辺の人は余所から来た人だと言っていた。

言いたいことは何なのかというと、経験知(と言っていいのか、先祖の記憶というか)で今回ほどではないにしても津波(水害)の被害が記憶の底に残っているかいないかで、それが今回の生死を分けてしまったのかなと。。。(ちなみに母親の実家は60年ほど前に高台から数百メートル南の現在の低い地所へ超してきた、耕作地まで行くのが面倒だったからと思われる。)。極端な思い込みかも知れないが。

3/12・13に撮影されたという国土地理院による航空写真(平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震に関する情報提供)をみると無残な津波の爪痕が海岸線のそこかしこに写っており、被害の大きさが尋常でない現実を見せつける。特に母親の実家あたりの写真ではそのコントラストがあからさまである。これを見た時に強くそう感じた。命あっての物種か。

原町無線塔は1982年に解体されているので、この塔の存在を知っている人間もすくなくなってきていると思う。私の記憶も朧気だ。正直な話今回の津波は犠牲者の多さ、被害の規模は現代日本では考えられないもので、連日の報道を見た時には暗澹としたのだが、叔父家族の無事、いとこの無事、景観の無事を確認するたびに、私の思い出の場所も人もこの塔のように無くなってしまったということがなくて本当によかったと素直に思っている。

(追記の追記 2011/03/19)
大地震や津波の前には井戸の水が濁るという。今回このあたりでも真っ黒になったという現象が見られたと母親が。。。
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2007/06/10 21:41 | Comments(0) | TrackBack() | 雑感

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